ninomiya_20110423

私が6歳のころ、昭和34年の春に入学した吉岡小学校で目にしたのは

校庭の片隅で、薪を背中に背負い本を読む二宮金次郎の像でした。
芝刈り縄ない 草鞋(わらじ)をつくり

親の手を助(す)け 弟(おとと)を世話し

兄弟仲良く 孝行つくす

手本は二宮金次郎
この文部省唱歌も今は音楽の教科書からすっかり消えてしまい、

代わって君が代の横に懇切丁寧にルパン三世のテーマ曲の演奏方法が

書いてあるそうです。

もちろん犬童球渓の「旅愁」や「故郷の廃屋」など、影も形もありません。
私たちが子供のころの昭和の20~30年代は本当に何もない時代でした。

母は外で七輪でサンマを焼き、窯でご飯を炊いていました。

水道はもちろんないので子供は井戸で水を汲み、お風呂にバケツで運んだものです。

外に突き出たトタン屋根の粗末なお風呂に父と入った菖蒲湯は本当に懐かしい。

雨が降ってくるとトタン屋根は音楽会に早変わりでした。

トトロの世界そのものですね。
そのころ各家庭に、子供は平均4~5人はいたでしょうか。

私は当時の田舎には珍しい一人っ子でしたので兄弟がいる家がうらやましく

学校帰りに兄弟がたくさんいる農家に遊びに寄りそのままご飯までごちそうになっていました。

その家は貧しい農家だったけれど私をとても大事にしてくれて

家の子供らにはたくあんとみそ汁で食べさせても、

私にはいつも魚を焼いてくれました。

私の両親を含め今では親たちはみんな死んでしまいましたが

あのころを思うと胸がキュンと締め付けられるような感情が湧き上がってきます。
今は親が子供を平気で殺す時代ですがあのころは子供は本当に大事にされました。

私の家でも大雪の日に父が今日は少年マガジンの発売日だ!

と言って遠くの本屋まで漫画を買いに行ってくれたり、

これもやはり大雪の日に20キロも離れた古川の駅まで山形の祖母が送ってくれた

スキーを取りに自転車で行ってフラフラになって運んできてくれたことなどが、

何かの時に走馬灯のようによみがえり涙があふれてくることがあります。
自分の人生は親孝行をするためにあったのだなあ~と

親が死んで昔話をする相手がいなくなったなあと感じる時にふと思います。
ガンで2年前に亡くなった父は母が亡くなったあと23年間も毎日お弁当を作って

私の仕事場まで運んでくれました。

子供と一緒にいてご飯を一緒に食べるのがうれしかったのでしょう。

亡くなる三日前にショートステイの施設で預けた時のことですが、

どうしても家に帰りたいと言って騒ぐ父に付き添ってくださった看護士さんが、

お父さんは自分の息子は医者としても人間としても一流なんだよと言っていましたよ

と話してくれました。

気恥ずかしかったけどもうこれで自分は子供として十分な親孝行ができたのかなあ

と思うと同時に、

もっといろいろしてあげられたのでは・・・・・と

後悔の念が洪水のように押し寄せてくるのを感じずにはいられませんでした。
父が亡くなってすぐに自分も大病を患い、その後この世に生還を果たし

今では本当にすべての患者さんがいとおしくてなりません。

出会いの縁を大切に歯科医師人生を全うしていきたいと思います。